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太夫村についてAbout of tayū village

古くは上上野村(かみうえのむら)の村名でしたが、いつしか村の全戸が神職(大神楽を生業とする神楽職と尾張国津島神社の御師である師職のどちらか)に従事する事となり、時の桑名藩主である松平定綱(在任1635~1651年)が村名を太夫村と改めたと伝わります。最盛期には十二の社家(家元)が太夫の屋号で活動しました。太夫達は古来より伊勢大神楽獅子舞として諸国で支持を獲得し各藩主を檀家とするなど諸国と強い繋がりを持っていたため、江戸期には伊勢神宮内宮御師(荒木田孫福館太夫)と共に太夫で祭礼を行うようになり、お伊勢参りの広告塔として内宮御祓大麻の配札を委託されていました。これが今日でも桑名より諸国を巡る伊勢大神楽の由緒となっています。

増田神社についてAbout of Masuda Shrin

増田神社は伊勢大神楽の太夫達が奉斎する大神楽の守護神であり通称『増田(益田)大明神』と呼ばれます。450年以上の歴史の中で桑名近隣の神社と合祀された事で、祭神は天照大神・武御雷命・経津主命・保食命の四柱となりました。増田神社は宗家である山本源太夫邸の敷地に建てられていますが、古来より太夫家らで当番制を敷き持ち回りで祭儀を執り行ってきました。 一年を通じて太夫達は回檀の旅を続けていますが、本拠地である増田神社では年末の神講を中心とする年中行事が四季を通じて執り行われています。例大祭翌日の十二月二十四日の”総舞”では全てのが社中が増田神社へ帰還し盛大に総舞を奉納するため、全国からの参拝客で境内が賑わいます。

伊勢大神楽講社についてAbout of Ise-daikagura Kōsha

伊勢大神楽講社の歴史 伊勢大神楽発祥の地である三重県桑名市大字太夫を本拠尾に諸国での活動を続けた伊勢大神楽の家元たちは江戸から昭和初期に至るまで『獅子舞同盟』の名称で同業者組合を組織し、活動をしていました。昭和27年には任意団体『伊勢大神楽講社』と名称改め近代に合わせた各種規則作りが推進され三重県指定文化財・国指定重要無形民俗文化財の認定を受けた事で時代に合わせ法人し、無期限中間法人・一般社団法人と形を変えながら文化保全活動を続け、今日に至っています。 また、長い時代の中で太夫たちにとって精神的支柱である増田神社・それに纏わる祭事の保護も重要な活動としてきました。神社の保護活動への取り組みにおいては、昭和29年 22代目山本源太夫を中心とし神道大教の教派場として宗教法人神道大教伊勢大神楽講社を設立。増田神社での神事祭行の取りまとめや、災害時の修繕など、現在でも神社の管理法人として運営されています。 また(一社)伊勢大神楽講社の代表理事は山本源太夫の勇退に伴い、令和4年より、宗教法人の役員・代表代務として長らく運営を担ってきた山本勘太夫に引き継がれています。 山本勘太夫の体制へ移行してからの伊勢大神楽講社では、これまでの活動内容は刷新され、家元制度(世襲制度や縁故入門)を廃し大神楽師の後継者育成・文化財保護を担う団体として自社や他団体への資格免許発行など、より広義での文化財保護を視野に、年々活動の幅を広げています。山本勘太夫・加藤菊太夫の二社中の大神楽師たちが法人の職員として活動しています。 昭和27年 任意団体 伊勢大神楽講社設立 昭和29年 三重県指定民俗文化財に認定
昭和56年 国指定重要無形民俗文化財に認定 平成14年 任意団体から法人化し『無期限中間法人伊勢大神楽保存会』設立。 平成20年 無期限中間法人から『一般社団法人伊勢大神楽保存会』に法人を移行。※最初期のみ『伊勢神楽支援会』の登記名称で活動。 令和4年 一社と山本勘太夫社中が併合し『一般社団法人伊勢大神楽講社』を設立。 令和5年 前年に廃業した加藤菊太夫社中が山本勘太夫に次ぐ、二社中目の法人直営として再興される。大神楽師免許制度が施行。法人直営の二社中は団体ではなく個人への認可へと切り替わる。 令和6年 社中への資格免許制度が施行。法人直営ではなく独立し事業を行う山本源太夫・森本忠太夫・石川源太夫の三社中、尾鷲市を拠点に地域の阿倉川流保存会として半世紀以上の活動実績を持つ山城修社中が技術協力団体として一社へ加盟し資格免許が発行される。

伊勢大神楽講社の家元Main branch of a family

最盛期と言われる江戸後期には12の太夫が社中を組み活動していましたが、明治期の神道改革や昭和期の戦争の影響もあり、現在は山本勘太夫・加藤菊太夫・山本源太夫・森本忠太夫・石川源太夫の5つのみとなっています。 また、伊勢大神楽講社 法人直営となる山本勘太夫・加藤菊太夫社中では家元制度を廃止し、所属大神楽師で一定の職位に達したものに家元の姓を継がせるなど、明治~昭和初期の古式の制度を復活させ現代に活かしています。 ※文化13年(1816年)の古文書「連中取締之事」では、太夫村より諸国を巡る大神楽として「山本源太夫・森本忠太夫・山本勘太夫・加藤孫太夫(加藤菊太夫本家)」の名が確認されています。また、文化8年(1811年)の古文書「海老小誌」には阿倉川代神楽七家に関する一節があり、現在は伊勢大神楽講社に合流している石川源太夫の名を見つけることができます。

山本勘太夫の襲名披露の様子(平成26年)
増田神社における最重要神事"神講"に列席する各太夫
家元制度廃止後、初の太夫となる山本春太夫の名跡継承式の様子(令和5年)
一社の大神楽師の名跡継承式の様子。全員が山本姓・加藤姓で新たに大神楽師免許を交付されました。(令和5年)

山本勘太夫Kandayū Yamamoto一般社団法人 伊勢大神楽講社

 

伊勢大神楽講社直営社中。現法人代表を務める。伊勢大神楽講社を組織し文化財の保護活動や人材育成部門を一手に担う。 屋号の通称は東山。伊勢大神楽の歴史上最初期より活動する古参の家元だが明治三十年には後継者の引き継ぎ手がおらず約70年間活動を休止している。その後も昭和期に跡取りが相次ぎ戦死に見舞われるなど、半世紀以上の活動休止を経て昭和四十六年に再興を果たした。国内外での公演活動やNHKなど各種メディアへの出演や伊勢大神楽の枠を超えた活動を行う社中である。古来は滋賀県・島根県・兵庫県を主な檀那場としていたが、再興後は滋賀県・大阪府・岡山県・広島県を檀那場としている。

加藤菊太夫Kikudayū Katō一般社団法人 伊勢大神楽講社

伊勢大神楽講社 直営社中。神楽支配を家職としていた公家・持明院家と深い繋がりを持ち、主に鳥取県を檀那場としていた加藤孫太夫の分家にあたる家元。2008年・2009年には韓国公演を行うなど、かつては海外公演も積極的に行うなど隆盛を極めたが後継者不足により令和4年度に廃業。現在は一般社団法人直営社中として再興し、将来の6代目菊太夫襲名を目指す加藤菊太(きくた)を中心に活動している。古来よりの檀那場は滋賀県・鳥取県・岡山県・島根県・大阪府・兵庫県。4・5代目菊太夫は木村七良太夫の名義でも有名。また、全国各地に伝承が残る伊勢大神楽系の保存会の中で唯一『伊勢大神楽 山城修社中(三重県尾鷲市)』を下部団体として公認・交流している。

山本源太夫Gendayū Yamamoto

伊勢大神楽講社 加盟社中。現資格責任者は『寺尾寛』伊勢大神楽の黎明期より活動する伊勢大神楽の宗家。増田神社の維持管理法人である『宗教法人 伊勢大神楽講社』を運営する。屋号は北山本。22代目山本源太夫は伊勢大神楽講社の創始者である。古来よりの檀那場は滋賀県・福井県・大阪府。

森本忠太夫Chūdayū Morimoto

伊勢大神楽講社 加盟社中。現資格責任者は『森本和哉』。屋号は東森本。現存する5つの社中において、最も古の様式を残す社中と言われる。特に獅子舞の舞手・音曲に於いて、一貫して改変を行わず、古式の手が現代までそのまま引き継がれていると言われる。また、塩飽諸島や小豆島など本土を離れての回檀を行う唯一の社中でもある。

石川源太夫Gendayū Ishikawa

伊勢大神楽講社 加盟社中。現資格責任者は『山本雅之』江戸後期~明治初期まで太夫村と勢力を二分していた東阿倉川村(三重県四日市市)系の家元である。太夫村の家元達が増田大明神(天照大神)を祭神として斎奉いるのに対し、東阿倉川村の家元達は高宮大明神(豊受皇太神荒御魂)を祭神として斎奉している。東安倉川の伊勢大神楽が衰退を始めたのを機に活動の拠点を桑名へ移し、現在では伊勢大神楽講社の家元として増田神社の祭礼に参加している。尚、2008年に社家である石川家が伊勢大神楽講社へ名跡返還を行なった為、現在は山本勘太夫の分家が名跡を継ぎ社中を率いている。檀那場に応じて加藤源太夫・伊藤森蔵など旧名で活動を行っている。滋賀県・和歌山県・大阪府・三重県を檀那場としている。

山城修※加藤菊太夫社中所属Osamu Yamashiro

伊勢大神楽講社 加盟社中。現資格責任者は『岡 潤』三重県尾鷲市では、昭和に地元の楽団が東阿倉川系伊勢大神楽の石川源太夫組から神楽の伝承を受け、地元の少年たちが神楽の習得に励んだ。長年に渡る活動・実績が評価され、一般職に就くアマチュア団体でありながら確かな技術継承と貢献が認められ、加盟社中として認可された。正月恒例の行事である、伊勢神宮(内宮)のおかげ横丁回檀・総舞は山城修社中の受け持ちである。尾鷲市内に道場を持ち、他府県への回檀よりも地元三重県のこども達への伝承活動を主たる活動としている。阿倉川流 伊勢大神楽を継ぐ稀少な社中である 。