ディレクター(以降D):今回の企画記事なのですが、伊勢大神楽講社さんのYoutubeをずっと桑名のミヤシタデザインで企画・撮影を担当させて頂いていまして、私は主にストーリーラインの提案で関わらせて頂いています。チャンネルの登録者数が令和6年11月現在で1200人となっており、1万再生を越える動画も何本か出てきました。現在は毎年の恒例になっている年度のドキュメンタリー『旅する獅子』のシリーズが公開直前となっており、これまでの裏話などのお話を交えて、今を生きる伊勢大神楽さんが何を訴えていきたいのかを探ってみようかと思います。
勘太夫:承知しました。新作も楽しみにしています。宜しくお願い致します。
D:最初の質問ですが、これまでYoutubeの方は反響は如何ですか?もう7年が経ちましました。
勘太夫:日頃、地方を旅していて「Youtube観てます。先日は海外公演へ行ってましたよね?」みたいな感じで道で声を掛けられる事も多くなってきました。「海外へ行ったのは5年前です」と突っ込みたくなりますが(笑)、これって以前だと、道端でオバちゃんから「この前あなたNHKで観たわ~」と握手されたけど、放送が10年前みたいな。あの現象の令和版が、ブラウン管テレビではなくYoutubeなのかと(笑)。Youtube自体も一時のセンセーショナルだった時期が落ち着いて、生活の一部に自然に溶け込んでいるんだなと実感しますね。
D:旅する獅子のシリーズは最初に青森の下北半島への旅を撮りましたね。撮影5日間、凄い映像になっていたと思います。
勘太夫:『旅する獅子ミナカダ祭』ですね。あれは濃い時間でした。海路で往復42時間、陸路で14時間。早朝から回檀。夜に総舞をやって深夜に神札の頒布や物販をやって、せっかく大畑で良い旅館を予約して頂いたのに現地での睡眠が1時間半。しかし出逢った大畑の方のお顔は殆ど覚えてますよ。けっこう下北の方、生命力の強さを感じるような濃い方が多くて驚きました。
D:足を運んだからこそ分かる部分かもしれませんね。旅に同行したウチのカメラマンも「東北での時間は凄く濃い時間だった」と感動していました。
△旅する獅子 ミナカダ祭[前編]~下北半島への旅~
勘太夫:あと船酔いが凄くて。名古屋から仙台へ海路で移動する際、行きしな船首の安い部屋だったんですが、船の先端に寝てるもんだから、波による船の揺れが凄まじい。3名の相部屋だったのですが誰も寝られない。(笑)帰りも岩手県のサービスエリアに立ち寄った際に、当時の新弟子が寝ぼけて、なぜか木刀を手に持ったまま飲食店に入店して。しかも、うっかり忘れて帰ってくるという。(笑)睡眠不足な旅でしたね。ちなみにYoutubeには撮られていない部分の余談ですが、実はミナカダ祭の遠征スケジュールはあれで終わりじゃなかったんですよ。
D:青森から名古屋港まで帰ってきて、2日後に岡山県へすぐ旅に出たというお話でしょうか?
勘太夫:それもそうですが、名古屋港から桑名へ帰り、そのまま市内でNHKの旅番組のロケの撮影がスタートしました。落語家の林家三平さんや女優の村井美樹さんが伊勢へ来られて「ようこそ伊勢の国へ!我々が全国の人をお伊勢参りへいざなう伊勢大神楽でございます!」って、目の下にくまを作りながらお迎えしました。笑
D:むしろ伊勢へ長旅から帰ってきたのはこちらですよね(笑)。放送では結局、放下芸なんかもたくさん披露していました。大変な日程でしたね。
勘太夫:しかも、これで終わりじゃない。このNHKのロケを地元桑名からの入門希望者の若者がわざわざ見学に来ていて。で、収録が終わって解散した後に「僕は伊勢大神楽へ入りたいです!」と。この時期は半年で25人くらい入門志望者の問い合わせがあって、回檀と公演依頼の合間を縫って、ずっと新弟子の面談をしていましたね。
D:半年で25人の入門希望者とは凄いです。実際のところは如何でしょう?伝統芸能の世界ですから、入門のハードルも高いという事でしょうか?
勘太夫:入門の敷居は高くはないです。あの年は結局4名が入門していますんで。ただ、専門職に、就職という行為自体を目標設定に入ってくる人は基本的にいないんじゃないでしょうか?
D:職人だったり芸能者だったり、伝統職と呼ばれる仕事は「自分には合わない職だけど、とりあえず働いています」という形での生き方はあまり相性が良くないのかもしれませんね。
勘太夫:伊勢大神楽の宗家 山本源太夫さんが、昔よく話していましたが、結局は志す人自身がどう生きたいのか?その答えが大神楽の中にあるかもしれないし、無いのかもしれない。いかんせん興味がない事には旅を続けられない。
D:客観的に見ていますと、大神楽さんの場合は旅に生きるという部分のウェイトが大きいかもしれませんね。
勘太夫:そうです。「プロの芸能者になりたい」とか「職人さんに憧れて」という方はいつの時代も一定数いると思いますが、そこに旅が伴う。旅して世の中を見て歩く、その日常を受け入れて生きていくことが幸せに感じられるか負荷に感じられるかですね。旅で色んな方々との出逢いがあると、人として成長していきますから凄く楽しいんですけどね。
D:なるほど。こちらの感想になってしまうかもしれませんが、伊勢大神楽の凄いなと思う部分があって。例えば新弟子が一人、勘太夫社中さんに入門して地方の巡業にも帯同して地方についていくじゃないですか?で、こちらは撮影のために地方へ呼ばれて春とかに新弟子にも出会ってご挨拶をさせて頂くんですよ。それが、半年経ってまた冬に出逢ったりすると、同じ子とは思えないくらい精悍な顔つきになっていたり成長して、本当にいつもいつも驚くんです。
勘太夫:それは良く言われます。昔から勘太夫社中は育成が強い伝統があるんで特に。勘太夫社中は某学者の先生に『大神楽界の虎の穴』と言われたりもしましたね。(笑)ただ、厳しい旅だから人が育つというのは間違いです。楽しい旅と本人が感じているから育つんだと思いますね。素人のお兄ちゃんが、たくましい青年になって世のため人のために、活躍していく様を見るのは私も嬉しいですしね。
D:お話をYoutubeに戻しますね。一本目の「旅する獅子 ミナカダ祭」のお話から、近年の担い手のお話まで話が及びました。Youtubeでは翌年の『令和改元篇』で、またしてもフェリーに揺られて海外公演へ。さらには外務省から招聘を受けて主要国首脳会談G20での公演。その後コロナ禍の旅を2年以上も追った『コロナ禍の旅』の二連作では、総舞の無観客奉納にも密着撮影させて頂きました。
△旅する獅子 令和改元篇 ~国際舞台での躍動~
勘太夫:こうやって、この数年の活動を記録して頂いたものを振り替えると、山本勘太夫社中の活動って伊勢大神楽の世界においては派手というか、古来からの一年の檀家回りを受け持ちながら、全国の公演依頼にも積極的に出演したり、どこか業界の広告塔という印象だと思うんです。
D:旅する獅子シリーズの密着の内容も正にそれを反映していると思います。
勘太夫:ただ、そうではない。Youtubeで言えば『伊勢大神楽講社 改』というのがありますよね?あれが全てなんですよ。本当に日本が少子高齢化していく中で地方から人も減っている、もちろん若者が少ないから大神楽の担い手も減っている。でも、重要文化財として築いてきた信用により今の時代に一層、重宝されて影響力は年々拡大していく。まして昨年度 山本春太夫が誕生するまでは、長らく現役の太夫は山本勘太夫わたし一人だった訳ですからね。
D:他の家元さんは世襲制でありながら半世紀以上、代替わりされていませんね。
勘太夫:ご高齢なら太夫名は後進に譲っても良いのではないかと思うんですけどね。私は。確かに同業者として、世襲制でみた場合に相応しい人材が各家元の血縁にいるかと聞かれると私も困ってしまう事情は分かります。お人柄だったり体調だったり、もちろん技量だったり色々ありますので。
D:そこで『伊勢大神楽講社 改』でもお話されていた世襲制の廃止論が出てくる訳ですね。
勘太夫:太夫と呼ばれる人たちも、皆が肩の荷を降ろして楽になっても良いんじゃないかと。そんな気持ちです。事実、令和4年に廃業した加藤菊太夫は世襲制を廃止したからこそ廃業して再興が実現できたので。
D:加藤菊太夫社中の再興について簡単にお話を聞かせて下さい。
勘太夫:問題ないと思います。加藤菊太夫さんのところも本家の血筋の後継者がおられなくて長らく苦労されていたんですよ。実情として分家は存続しているけど、太夫を襲名させる程の功績はあげていないから継げない。そんなジレンマが10年近くあったと思います。
D:大神楽業界の方が心配されていたのは聞いた覚えがあります。
勘太夫:それで結局は、本部の方から世襲制度を辞める動きがあるので、賛同して頂けませんか?と。100年以上も続けてこられて、後継がなくても引退を認めてあげる事。それが思い悩む菊太夫社中の助けになるんじゃないかと考えました。結局、令和4年に廃業願いを本部からお出しして受理をして頂きました。私は入門した17年前に新弟子時代に加藤菊太夫さんのところで修行生活を送っていた身なので、節目にお世話をできて良かったです。
D:そんなお話だったんですね。長く続けるからには止める決断も重くなりますよね。
勘太夫:続きの話も少しドラマチックなのですが、加藤菊太夫さんのところが廃業し、担い手たちが私が新設した社団法人に合流する流れになった時に、山本勘太夫と文化的に混血した山本勘太夫の新組を輩出しようか、旧加藤菊太夫の担い手を中心とした新組にしようか、どうしようかと考えていた折に加藤菊太夫さんのご親族の方々にも意見を伺いにいったんです。
D:本家が廃業された後をどうするべきか?という相談ですか?
勘太夫:そうです。念のため「仮に新たな社中ができるとして、山本〇太夫社中になるか加藤〇太夫社中になるか、何かご意見はありませんか?」と尋ねたところ「加藤の名を継ぐ分家に頑張って欲しい」と仰られて。あれほど本家から分家への継承が拒まれていたにも関わらず、法人が仲介に入った事で率直に加藤菊太夫の歴史を分家に託すと。
D:利害関係やしがらみが取り払われた時、純粋に身内を応援するお気持ちが再確認できたという事でしょうか。正に肩の荷が下りたというお話ですね。
勘太夫:だから加藤菊太夫は廃業するけど、加藤菊太夫社中の歴史と文化は全て引き継ぐことに決まりました。こちらも引退する菊太夫氏への尊敬を込めて、「菊太夫の名跡は再興された加藤菊太夫社中から太夫の名に相応しい大神楽師が表れるまで、太夫不在で再始動する」と約束をして今に至ります。
△旅する獅子 伊勢大神楽講社 改
D:加藤菊太夫の再興については『伊勢大神楽講社 改』で当時の動きが密着されています。あれから2年が経過し世襲制度を廃止して以降、社団法人の現状はどうなっていますか?
勘太夫:最新の動きとしては大神楽師免許制度が始まりました。いつの時代も温故知新です。今の時代に合う事を考えた時のヒントは必ず過去の歴史・先人の歩みの中にあります。この制度はかつて一般的だった”養子縁組”をベースに過去に伊勢大神楽講社で行われていた様々な制度を時代にあった解釈に変換して復活させたものです。
D:担い手からすると、単純に大神楽師の技術や実績に対して資格制度を敷いたものですよね。
勘太夫:簡単に言えばそのようなものですが、心持ちの変化として一番大きいのは自身の改名を伴う制度だという事です。昭和時代までの日本では養子縁組が一般的だったり、ずっと昔には幼名がありましたよね。人は立場によって名前が変わっていくんです。少なくとも200年以上は続いた大神楽の世襲制を辞めたからには、血縁に囚われず有望な大神楽師を育てていかないといけない訳ですから、制度が人を成すような素晴らしい仕組みでなくてはいけません。
D:最初の年は、皆が山本姓や加藤姓を継がれましたね。そして何より三重県出身者以外では史上初の太夫となる『山本春太夫』が誕生しましたね。世襲制度を廃止した成果がさっそく結果になった印象です。
勘太夫:まぁ正体は、同期の指吸くんですけどね。
D:さっそく本名で呼ぶのは止めてあげて下さい(笑)。
勘太夫:農民の木下藤吉郎がやがて豊臣秀吉になったようにロマンが詰まった素晴らしい制度だと思います。もともと、新たな太夫を輩出するのを急いでこの仕組みを作った訳ではないんですよ。新たな太夫ありきの制度ではない。明治期の同業者組合である『獅子舞同盟』が敷いていた制度に職位制があるんです。私の自営業時代の勘太夫社中もこの職位制度でした。これを改めて法人所属の大神楽師全員に照らし合わせてみた時に、一人だけ抜きんでた大神楽師がいた訳です。
D:それが春太夫さんだと。
勘太夫:彼の師匠である先代勘太夫と女将さんにも制度を説明して、精査して頂いたら「これだけの技術と実績がある者が太夫にならないようでは、一生太夫の職位につく子なんて出ない」と即推薦でした。この制度が形になったのが令和5年11月だったのに、会議や神事・式典は12月23日に差し迫っているという事ですぐに襲名の準備が始まりました。いろいろ大変でした。
D:大神楽師免許制度に関しては近日公開される今年の『旅する獅子 』で詳しく取り上げられています。ぜひ、公開を楽しみにお待ち下さい。長らくお話を聞かせて頂きましたが今回はこんな所で如何でしょうか?
勘太夫:なかなか、運営の裏側だったり担い手たちの想いを発信する場というのが、SNSくらいしかなかったので良い機会でした。今日のお話の内容が、果たして見て頂く方の関心に訴えかけるものなのかは私には分かりません。気持ちの一端だけでも伝われば、Youtubeに登場する大神楽師の顔つきも3割増しで男前に見えるかもしれません。
D:せっかく良いお話で締めて頂けると思ったのですが、最後に冗談で締めますか(笑)
勘太夫:私は現在の仕事が道化師なので日常的にボケていないと落ち着かない性分に変わってきました。この辺りの変化も無形文化財ならではなので、また取材にいらして下さい。
D:承知致しました。本日はありがとう御座いました。
Youtube 伊勢大神楽講社公式【旅する獅子】
公開予定スケジュール
令和6年11月予定『旅する獅子 加藤菊太夫を探して~大神楽師という生き方~』
令和6年12月予定『旅する獅子 襲名 山本春太夫~大神楽師という生き方~』